これからは「個人で稼ぐ時代」です。

なぜ「お金=信用」と呼ばれるようになったのか?お金の成り立ちを調べてみたらトンデモナイ闇にぶつかった!

お金=「信用」だよって、賢い人が言っているのをたまに見るのですが、これってどういう意味なのでしょうか?

最近では、仮想通貨(暗号資産)が突然出てきたり、安倍総理が直々に、「キャッスレス化」を日本で推進し始めたり、最近、顕著に、僕がこれまで考えてきた「お金」の概念が崩れ始め、「お金」という存在が、ちょっとわからなくなってきたところでした。

「どうして、お金は生まれてきたのか?」「お金はどこへ行こうとしているのか?」

今になって、少し、疑問が湧いてきた「お金」について、自分で勉強したことを、軽く整理したので、物忘れが激しい自らへの忘備録として、ここに書いておくことにします。

そもそもの、お金の起源を調べていくと、意外な事実が見つかった

お金のない時代、そもそもは物々交換から始まった・・・

お金の成り立ち1
この世にお金はなく、最初は物々交換だった
海辺に住む漁師は魚が多くとれるし、山に住む狩人は、肉がよくとれる。お金がなかった時代、漁師が肉を食べたい場合は、物々交換が当たり前だった。交換した物が腐ったりしないよう、物々交換したい人たちが、みんな広場に集まることで、「市場」の原型が誕生した。
お金の成り立ち2
皆が集まる市場では、沢山の人に喜ばれる稲や布が交換の「仲立ち」をするようになった
便利な市場は誕生したが、漁師が持っている魚を、肉と交換したいのに、たまたま、みんな既に魚を持っていて、物々交換が成立しない場面が出てきた。そこで、漁師は、持っている魚を、みんなが欲しがり、重宝される「稲(米)や布」に変えてから、肉へと交換するようにした。稲はお米が食べられるし、布は着る服が作れるので、みんなに重宝され、喜ばれた。このような動きが広まり、市場で「稲」や「布」を持って、自分の欲しいものを探す人が増えた。
お金の成り立ち3
稲や布は劣化が激しく、長持ちする貝や金属が「仲立ち」に使用されるようになった
皆が市場で「稲」を持ち、仲立ちをするようになると、稲を長時間持ちすぎて、物々交換する頃には、稲が痛んでしまう事態もたびたび発生してきた。大昔の中国では、長持ちしない「仲立ち」の代わりとして、「珍しく・綺麗なものがよい」ということで、「貝」が仲立ちをするようになり、さらに丈夫なモノが良いということで、後世になり、金や銀・銅などの金属が使われるようになった。
お金の成り立ち4
「仲立ち」は、軽くかさばらない、持ち歩きに便利な形態に変化していった
こうして、金貨や銀貨・銅貨ができたが、これらは大量に持ち歩くには、重くてかさばり、歩くと音もするので、強盗に狙われる危険性も高まった。そこで、金貨や銀貨を預かってもらう、金持ちの人を探し、そこに預けることにした。預けた証拠として、紙でできた「預かり証」をもらい、買い物をするときなどは、その預かり証を直接、商品と交換することで、お店の人が、お金持ちの所に行けば、いつでも金貨や銀貨と交換してくれるようになった。これが「紙幣」の始まり。預かり証を出してくれるお金持ちは、日本では「両替商」と呼ばれ、明治時代になると、そのまま「銀行」へと 変遷していく。
お金の成り立ち5
重い金貨の代わりに、紙でお札(兌換券)を発行する銀行家が誕生した
このように、銀行家は「金貨や銀貨を預ける代わりに、紙幣を発行していった」 。人々は、この紙幣(兌換券)を持っていれば、いつでも金と交換してもらえるという「信用」があった。その「信用」を利用して、悪だくみを働く銀行が出てきた。金の保有量が少ないのに、勝手に大量の紙幣を発行する銀行が現れた。このようにして、あまりに大量の紙幣が出回ると、心配になった人々が、紙幣を金に戻そうとする事態が頻発した。こうなると、銀行が持っている金では交換が追い付かなくなり、紙幣に対する「信用」が失われることになるので、紙幣を発行できるのは、その国で、たった一つの銀行だけにしようという取り決めができた。これが各国に存在する「中央銀行(日本は日本銀行)」という組織である。
お金の成り立ち6
経済発展の為に、金との兌換制度をやめた中央銀行(悪魔の術を手に入れた中央銀行)
こうやって紙幣を発行できる中央銀行とその他銀行が誕生したのだが、一つ問題が出てきた。金と紙幣を交換する「兌換制度」では、その国が保有している紙幣の上限(保有している紙幣の枚数=金の保有量)が存在したため、それにより、その国の経済発展が鈍化してきたのだ(金の採掘量も減ってきた)。最初に作った「銀行のルール」が、今度は逆に国の経済成長を制限し始めてしまったのだ。それまで中央銀行は、持っている金の量しか、紙幣を発行できない(金本位制)ことで、信用を担保していたのだが、経済成長が加速している時代に、お金を借りたいのに、借りられない企業がたくさん出てきた。解決策を考えた中央銀行は、「必ず金と交換します」という約束を、途中でやめてしまった。これにより、中央銀行は、必要な時に、紙幣を発行することができるようになり、お金を借りたい企業や個人へ融資することにより、その国の経済発展を担ってきたのだ。(融資を行うことで、銀行は利息も取れる。また、それとは別に、驚くことだが、日本の中央銀行である日本銀行が1万円を印刷するコスト(原価)は、たった20円だ。20円の原価で1万円の商品(紙幣)ができるなんて、こんな美味しい商売どこにもない。兌換制度を廃止することで、中央銀行は、「通貨発行権(紙幣発行権)」という最強の錬金術を、見事手にしたのだ。)

自らの中で、さらに理解困難になる「信用」の定義。日本やアメリカの中央銀行も「民間銀行」であるという真実を知って。

「信用は偽装することができる」というのが僕の見解だ。

そのもの自体の価値に由来する通貨とは異なり、法律によって強制通用力をもたせている紙幣などの「信用通貨」や、小切手といった金融のシステムを理解できる人間は数少ない。そしてこの数少ない人間のなかには、2つの人種がいる。システムからもたらされる利益にいたく興味をもつ人間と、そのシステムの施しに頼る人間、つまり政治家だ。どちらにしても彼らは我々のすることに反対などできない。しかも残された数多くの人間は、このシステムから資本が生まれることを理解できる頭脳を持ち合わせておらず、吸い取られても文句を言うこともなく、またこのシステムが彼らに不利益を与えていることを疑おうともしない。

ロスチャイルド兄弟 1863年

イングランド銀行の誕生。世界初の「中央銀行」はこうして作られた!

政府が銀行家のお金を頼りにするようになれば、政治は政府の指導者ではなく、銀行家に委ねられることになってしまう。お金を出す手は、受け取る手より、いつも高いところにあるからだ。お金に祖国などない。金融家は愛国心や高尚な振舞いなどにまったく関心がなく、彼らの唯一の目的は金儲けなのだ。

ナポレオン 1815年

1625年以降のイギリスでは、度重なる内戦と政局不安で、イギリス政府の国庫は空っぽの状態になっており、そのうえ、対フランスとの戦費もかさみ、国王はあらゆるところに借金をしていました。そのようなイギリス国王に、スコットランド人のウィリアム・パターソンをはじめとするグループは、オランダから伝わってきたある1つの考えを提案しました。それは、国王の支出を賄うために「私有中央銀行」つまり、今のイングランド銀行を設立するというものでありました。

イングランド銀行 ウィリアム・パターソン 通貨発行権 紙幣発行権

もうこの時点で民間(イギリス国民)にも、財政赤字を埋めるのに十分な貯蓄がなくなっていたので(さらに国民の税金から取ろうとすると、国民からの反対で内政も危うくなる)、パターソンとそのグループは、自分たちが銀行を作り、その銀行を使って、イギリス政府の「債権」を喜んで買いあげましょう、と申し出たのです。

ただし、債権を使った資金援助を行う条件と引き換えに、無から有を作り出せる錬金術である「通貨発行権」を行使したうえで作られる「銀行券(通貨)」でのみ購入できるなら、手を貸しますと、イギリス政府を説得していきました。

そして、1694年、イギリスのウィリアム1世がイングランド銀行に勅許状を発布し、ここに初めて近代的銀行が誕生したのです。

イングランド銀行による「税金搾取」の仕組みを図解化してみた!

紙幣発行権 通貨発行権 イングランド銀行 誕生の理由

※勅許状とは、「天皇や国王による許可」「勅命による許可」のことです。

※私有中央銀行とは、読んで字のごとく「私有(民間)が中央銀行を組織する」というものです。つまり、現在の「イングランド銀行」も「イングランド」という国名が入っているため、非常に誤解しやすいのですが、設立当初は、イギリス「政府」が運営する中央銀行ではなく、実は、この時の巧みな交渉によって作られた「国際銀行家」たちが出資し合い、運営する「民間」の中央銀行だったのです。

ただし、その後、イングランド銀行は「国有化」され、イギリス政府のモノとなり、現在は、民間銀行ではなくなっています。

イングランド銀行は、1946年2月に労働党政府によって「国有化」されるまで、銀行としては世界で初めての「株式会社」として、イギリス発の「産業革命」もリードし、世界初の民間中央銀行として、存在感を発揮していました。

ヨーロッパに突如現れた「ロスチャイルド一家」は、なぜ金融業で巨万の富を得ることが出来たのか?

ロスチャイルド商会は、「マイヤー・アムシェル・ロスチャイルドが、1764年にドイツで設立したのが始まりです。当時は、マイヤー・アムシェル・ロスチャイルド、若干、20歳。古銭商、貸金業、両替業を営んでいました。

その後、このマイヤー・アムシェル・ロスチャイルドの「5人の息子」たちが、ヨーロッパ全土で活躍していきます。兄弟の結束は、非常に固く、5人の息子たちは、ドイツやオーストリア、イギリス、イタリア、フランスに渡り、金融業を行い、それぞれに財を成していきます。

特に、イギリスのロンドンに渡った三男の「ネイサン・マイヤー」の活躍が凄く、一代で莫大な財産を築き「金融王」の名を欲しいままにしたのです。

ヨーロッパに突如現れた「ロスチャイルドと5人の息子たち」。イギリスに渡った三男「ネイサン・マイヤー」がとにかく凄かった!

5人の兄弟の中でも、イギリスに渡った「ネイサン」の活躍は目覚ましく、インフラの整わない時代に、優れた情報網を駆使し、英仏戦争を絶好のチャンスと捉えて、巨万の富を築いたのです。※現在では、株価操作で、法に触れる可能性のある手法を大胆に駆使し、ネイサンはイギリスの金融市場で、一人勝ちを達成します。

ネイサン マイヤー ロスチャイルド 成功の秘密 英国債 駆け引き

巨万の富 ロスチャイルド

この「イギリス・オランダ・プロイセン」の連合軍VSフランス軍の戦いを「ワーテルローの戦い」と呼び、ワーテルローの戦いで、イギリス金融界の主導権を一気に手に入れた「ネイサン」は、その後、イギリス経済の中枢に入り込み、それを契機に「通貨の発行」や「金価格」などの重要事項の決定権は、すべてロスチャイルド家に渡っていったのです。

ワーテルローの戦いで敗れたフランス政府。五男「ジェームズ」は、その困窮した政府へ、さらに融資を行うことで、フランスをも征服する!

1815年のワーテルローの戦いに敗れた後の、一方のフランスは、ナポレオンが獲得してきた領土のほとんどを失い、政治と経済が疲弊し始め、当のフランス政府は窮地に追い込まれていました。

この時、窮地に追い込まれていた「フランス政府」に対する「巨額の融資案件」を、あるフランスの銀行とイギリスのベアリングズ銀行が獲得しました。しかし、巨万の財を持ちながらも、フランス貴族からは、「成金」扱いされていた「ロスチャイルド一家」のロスチャイルド銀行は、フランス政府に対する、その融資団の選考から、除外されてしまったのです。

これまで、三男ネイサンも行ってきたように、その国の「政府」に融資することで、財を成してきた「ロスチャイルド一家」としては、フランス政府の融資団から外れたことは、この上なく、屈辱的なことでした。

これに激高した、五男「ジェームズ」は、ヨーロッパ各地で出回っていた「フランス国債」を買い集め、フランス国債の価格をコントロールし、国債価格を上昇させていきました。(そう、ネイサンがイギリスで行った事と、同じことを、ジェームズもフランスで行い始めたのです)

そして、1818年11月5日、ジェームズとその兄弟は、一転して各地で同時に、フランス国債の投げ売りを開始し、安定的に推移していたフランス国債の価格は、尋常でない下落幅で暴落を始めました。国債の価格が一直線に谷底へ向かっていく、影響を受けて、フランス政府のその他債権も値下がりをはじめ、フランス政府は混乱していきます。

ほどなくして、フランス宮廷に忍び込んでいたロスチャイルド家の代理人が、フランスの王様であった「ルイ18世」に、この局面を打開すべく、巨万の富を持つ、ロスチャイルド家に救済を求めてはどうだろうか?と打診しました。

それまで、フランス政府から冷遇されてきた「ジェームズ」の「ロスチャイルド家」は、この時、尊敬の眼差しをもって、ようやくフランスの表舞台に立つことになるのです。

ジェームズが、フランスの表舞台に立つと、案の定、フランス国債の値下がりは止まり、フランス国民からの称賛の的になったロスチャイルド家は、この時、フランスの金融界をも、完全に手中に収めたのです。

次男サロモン、オーストラリアを奪い取る!

彼らには、戦争、平和、謳い文句、宣言、犠牲、そして栄誉もなく、このような世間を惑わすものは無視している。彼らは自分たちの踏み台になるものしか眼中にない。ウィリアム王子はそのうちの1人であった。そして次はメッテルニヒだ。

フレデリック・モートン

次男サロモンは、長い間、ロスチャイルド家の次男として、ヨーロッパ各地を転々としながら、ロスチャイルド銀行の各支店の調査役をしていました。サロモンは、ロスチャイルド兄弟の中でも、最も優れた外交手腕をもち、弁舌さわやかで、お世辞がうまく、相手のご機嫌をとることが得意だったそうです。

サロモンは、その渉外力を見込まれ、ヨーロッパの心臓と言われたウィーンで銀行事業の開拓を命じられました。

当時のウィーンは、ヨーロッパの政治の中心であり、ヨーロッパのほとんどの王室は、オーストリアのハプスブルク王朝と、何らかの血縁関係がありました。

オーストリア貴族とお付き合いするには、ドイツのウィリアム王子とお付き合いするより、格式が重んじられていたため、サロモンは、そのようなハプスブルク王朝と直接接触するようなことはせず、オーストリアの外相「クレメンス・メッテルニヒ」を、踏み台に利用して、王朝に近づこうとしたのです。

そして、1818年のアーヘン会議(フランス敗戦後のヨーロッパの未来を語り合う会議)で、メッテルニヒの右腕とも称される「ゲンツ」が仲介に入り、サロモンはメッテルニヒと出会います。

サロモンの巧みな話術にメッテルニヒもすぐに打ち解けて、メッテルニヒ自身が、ロスチャイルド家の財力を利用することを思いつくのには、時間はかからなかったようです。

オーストリア王室は、ロスチャイルド銀行から頻繁に融資を受け始めましたが、もともと、国力の衰えていたオーストリアは、ますます借金地獄に陥り、サロモンの金庫に頼らざるを得なくなっていきました。

これで、ようやく、念願のハプスブルク家の高い敷居をまたぐことができたサロモン。

1822年、ロスチャイルド銀行は、その後、巨額の利益を生み出す中央ヨーロッパ初の「鉄道プロジェクト」を獲得し、1843年には、ビトコビチェ合同鉱業および、オーストリアとハンガリーが共同で保有していた製鉄所を買収し、サロモンは、オーストリアの経済と金融の支配者に上りつめたのでした。

長男アムシェルとドイツの関係

ドイツはナポレオンが撤退した後に、これまで300を越えていた封建小国を30ほどに合併し連邦国家を建設しました。フランクフルトに残った長男アムシェルは、初代ドイツ財政大臣に任命され、1822年には、イタリア皇帝から男爵の爵位を授かりました。

これは、フランクフルトにあるロスチャイルド銀行が、ドイツの金融センターとなったことを意味しました。

アムシェルには子供がいなかったため、後輩の育成に心血を注いだそうですが、その後輩の中に、後の世に名を残すこととなる、ドイツの鉄拳宰相ビスマルクがいたそうです。アムシェルとビスマルクは、本当の親子のように付き合い、アムシェルが亡くなった後も、ビスマルクはロスチャイルド家と密接な関係を持ち続けました。ビスマルクを背後で支えた銀行家ブライヒレダーは、ロスチャイルド家の代理人でもありました。

四男カールとイタリアの関係

四男のカールはロスチャイルド5人兄弟の中でも、一番、凡庸な人間だと思われていましたが、三男ネイサンの指示を受け、イタリアのナポリに赴き、ロスチャイルド銀行ナポリ支店を開設することになりました。

しかし、凡庸な人間だと思われていたカールは、イタリアで兄弟の予想を上回る能力を発揮することになります。

オーストリアのメッテルニヒが、イタリア革命を鎮圧するため、軍隊を派遣した際に、資金援助しただけでなく、カールの政治的手腕によって、イタリア政府にも、オーストリア軍の費用を一部負担させたりと、次第にイタリアの財政を支える大黒柱へと成長していきます。その影響力はイタリア半島全土に広がっていき、ローマ教皇グレゴリオ16世とも関係を築いていったのでした。

「ロスチャイルド、通貨強奪の歴史とそのシナリオ」 著者= 宋 鴻兵

これを読めば一発で「通貨発行権」をめぐる争奪合戦の流れが分かる!マジで「名著」だと思う一冊を紹介。

 

著者は中国の方です。この本は2009年に発行されているので、約10年くらい前に書かれた本ですが、とてもロジカルに中央銀行と「通貨発行権」に関する内容が書かれているので、本当に理解しやすいです。Kindle版がないのが残念ですが、この分野の本の中では、教科書的な名作だと思うので、もし良かったら、一度、買って読んでみてください。

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